青春とは、

青春とは、

姫野カオルコ

文藝春秋

 

フィクションとはいうものの、

著者とほぼ同世代で、舞台となっている滋賀県に12歳まで暮らした私にとっては、リアルに頭の中に描かれていく。時代背景、地域の特異性に共感しながら読み進めていく。

家庭内のことや子供がどうのこうのの噂が、何世代にも遡ってのご近所さんにとっては知っていて当然という閉塞感・・・あったよね。学校の帰り道で寄り道なんてしようものなら、自分が帰宅する頃には母親に誰かから告げ口されていて、帰宅後すぐに本屋での立ち読みを叱られる、なんてことしょっちゅうだった。

挙句に、我が母は(当時の大人は皆そうであったかもしれないが)人の目を非常に気にする人だったので、とにかく風紀について煩く指導された。

マッシュルームカットが流行っていた小学校時代には、”目に前髪が入る”ことを嫌った母の指導で長く伸ばした前髪を七三に分けピン留めで止めていたし、キャラクター商品を嫌った母だったので、”リボンの騎士”グッズや”ひみつのアッコちゃん”グッズは私の憧れだった。

今のように携帯電話のなかった時代、リビングに置かれた電話が家族共有の通信手段。

箸が転げてもおかしい年頃の高校時代、学校で毎日会っているのに帰宅後もその同じ友人と電話で1時間ほど笑い転げながら話す。母の妨害に遭いながら・・・

一体何をそんなに話していたのだろう。何がそんなに面白かったのだろう。

高校時代、我が家では、大学受験の準備のため部活動への参加を許されていなかった。というのは、私よりよく出来た兄が通っていた私立校では入学式の際、”大学受験のためには運動部の参加は控えるように”と(そんな非常識なことを)堂々と指導があったらしい。なので兄はもちろん帰宅部、そして私が高校入学する年にその兄ですら大学受験に失敗し浪人生となっていたので、私なんて出来ない娘は当然帰宅部でしょ、という流れが自然と作られていた。

何が言いたいかというと、主人公明子には1冊の本にできるほどの想い出が高校時代にあるようだが、私の高校時代はというと、偽りの自分を生きた記憶しかない。

ご近所からの監視の目(実際ご近所が私を監視していたかどうかはわからないけれど、母親によってそう思わされていたのは事実)、”出来のいい兄、ちょっと変わった妹”という母による印象操作、厳しい家庭のしつけ、こういった環境から逃げたかったのは、主人公明子にすごく共感する。が、私と明子の違いは実行力だ。ミッシェル・ポルナレフの京都公演参加への実行力たるや、感服する。高校生のそれとは、到底考えられない。そして、明子は大学進学時に実家からの逃避に成功している。自分の力でだ。静かなる闘志を持つ方なのだろう。尊敬する。

一方私はというと、私が窮屈な実家から脱出できたのは、結婚によるものだった。私には親に逆らう勇気などなかったし、明子ほどの実行力もなく、自分で人生を切り拓く気概もなく、結局は他力本願の甘ちゃんだったということだ。

今は、救世主の夫のおかげで実家からは遠く離れた土地に暮らしている。盆正月には”いつ帰省するの?”と攻め立てられながらも……そう簡単に帰省できる距離に助けられている。

本作品の最終章で私は、数多くの頁に登場する学内のモテ男中条秀樹君が心不全により39歳で他界したことを知ることになる。他の登場人物の近況に触れる箇所で、さらっと1行程度書かれてるのみ。そこに明子の心情は綴られていない。だからこそ、中条君がこの世に存在しないと知った時、明子が感じたであろう喪失感を想像せずにはいられない。

 

"満開の桜の下ど、私は3の7に言う。クラス会にも学年同窓会にも来なくていいよ。でも、いてくれ。いなくならないでくれ。"(本文p.248)

 

同級生、身近な友人の訃報に触れる機会が増えてきた。5年前には実父が他界し、厳しく誇り高かった母は認知症を患い施設に入所した。

 

わたしも言いたい。

私を取り巻く全ての人に。

いなくならないで欲しい。