同調圧力:日本社会はなぜ息苦しいのか

同調圧力:日本社会はなぜ息苦しいのか

鴻上尚史 佐藤直樹

講談社現代新書

 

最近、公私に忙しく読書時間が確保できない日が続いている。

絶対的意思を持って本に向かえば良いのかもしれないが

睡眠時間を削るのも嫌だし(翌日の不調が容易に想像できる)、

精神的にも疲れているのでホッとする時間(何も考えずぼうっとする時間)も欲しい。

なので、読みたい本は山積みなのにも拘らず、

一向に完読できずにいる。

そんな中、軽い気持ちで読み進められた一冊。

興味あるテーマで、対談形式だったので、読み始めるとあっという間に完読できた。

 

ドイツに住んでいる時に、ドイツ人の知人に、

”どうして日本人は他人を思いやる気持ちが強いのか。”

と、いわゆる

”空気を読む””忖度する””おもてなしの心”

的な日本人の性格について尋ねられたことがある。

その時の私の答えは、(子育て真っ只中だったので)

”小さな頃から、私もそう育てられたし、私自身も自分の子供にそのように教えているのだが、

「相手の気持ちを考えてごらん?」と・・・”

 

我が子が幼い頃、お砂場で、自分の砂遊びセットで遊んでいるにもかかわらず、

他のお子さんが(例えたまたま同じ砂場で一緒になったその日限りのお付き合いであっても)

”僕もスコップで遊びたいよ〜”

と泣き出したとする。

その時、私は、

”その子の気持ちになって考えてごらん?自分がその立場なら、貸して欲しくなるよね?”

などと我が子を諭しながら、

”順番こね”

なんて言いながら、スコップを貸してあげていた。

 

そこに存在する母としての私の感情は、

”我が子に他人を思いやる気持ちのある子になって欲しい”

という気持ちと、

”世間の人に、お砂場ルールを守れない親子だわ”

と眉をひそめられたくない、という気持ちが働いていたのかもしれない。

 

まさに私は、

過剰に忖度し自主規制するシステム

にどっぷり浸かっているのだ。

 

ドイツ人の知人との会話の中では、

他人を思いやれる日本人の国民性を再認識し誇りに感じていたが、

”僕の周りには、当たり前に上手く生きている友人がいない。”

と先ごろ就活に失敗し就職浪人決定の我が子が言うので、

彼の友人達を見渡してみると、

心身ともに健康にすくすくと育っている若者が少ない。

コロナの影響だろうか、と考えるも、ただそれだけではない気がする。

なぜなら、コロナ以前に既に心が疲れてしまっている子達も何人もいる。

 

多様性への激烈な逆流。

迷える若者たちについて、我が子と話していて我々もこの点に着目していたので、

この題材を目にした時、激しく同意をした。

”小学校の教育としては、「自分で考えてごらん?」「あなたはどうしたいの?」

などと個性を重んじた教育をしておきながら、

中学校、高校では校則でがんじがらめにされ、個性を押しつぶされる。

大学では少しばかりモラトリアムな時を過ごさせて貰えるが、

大学3年生からもう就職のことを考えなくてはならなくなる。

 

ヨーロッパでは、大学在学中に自分の生き様を探し、

個、を成熟させる。

私がドイツに住んでいる時に通った英語スクール(ドイツでなんで英語やねん!)では、

ヨーロッパ各国の人々と出会うことができたが、

大学について語るとき、彼らは”大学に何年通ったか?”

と言う会話を交わす。

大学に入学後、学問の興味が変わり、転科するもしくは入学し直す、

なんてことが当たり前なんだそうだ。

 

その点、日本では、個が成熟する前に、社会に放り出され、

幼き日に「自分で考える」「自分の意思を重んじる」と教えられた経験のある子供達を

「出る杭は打たれ」「忖度できない奴は、空気が読めないできない奴」として、

組織の中に作り出された「世間」から弾き出すのだ。

 

家制度について、たかだか100年ちょっとで植え付けられた家制度なんて、僕たちが頑張れば100年ちょっとで変えていけるんじゃないですか?

と言う記述がある。

日本は明治維新という大改革のどさくさで、政府が民衆に押し付けてきたルールや習慣も多々あるだろう。

 

日本人として。

これは古くからの習慣なんだから。

守らない人は非国民だ。

的な発想。

窮屈で仕方ない。

 

幼き日に、少しでも「個」を重んじる教育を受けてきた今の若者たちが、

社会に出て、「世間」の現実を突きつけられ、

壊れそうになっている。