認知症の人が「さっきも言ったでしょ」と言われて怒る理由

認知症の人が「さっきも言ったでしょ」と言われて怒る理由

木之下徹著

講談社+α新書

 

本書を通じて著者から読者へ伝えたいこと。

認知症の人、それは将来の自分の姿であること。

認知症の人、まさにその人は「人」なんだということ。

 

私がこの本を手に取ったのは、私の実母がアルツハイマー認知症を診断されているから。

そして、母に症状が現れ出した時、私の母への接し方にいまだに後悔があるから。

あの時の母の気持ちを知りたかったから。

 

残念なことに、母は自分の認知機能の衰えを認めなかった。

残念なことに、母は激しい怒りと暴力を抑えられなかった。

残念なことに、私はそんな母に恐怖を覚えてしまった。

残念なことに、母と私の間に、確固たる信頼関係や深い愛情がなかった・・・(のではないか)

 

認知症の大きな症状の一つ「忘れる」

この症状を、著者は「記憶のしづらさ」と表現している。

大いに同意。

新しいことを覚えられないのではない。

なかなか記憶されないのだと、「父の死(母にとっては夫)」への記憶の定着をもって実感した。

 

記憶のしづらさに配慮した社会へ。

母は決して自分の記憶のしづらさを認めなかった。

また、周囲の人に悟られまいとした。

そのため、長年仲良くしてきた友との、月に一度のお寺参りや、俳句の吟行を、

その日取りを「忘れてしまい」「周囲に迷惑をかけ」「そんな自分を悟られまい」

として、きちんと別れも告げず、不義理にも音信不通の状態となっていたようだ。

(のちに母の友人の一人から知ることになる)

 

もし、母が友人に甘えることのできる人だったら。

「私、約束の日時を覚えるのが苦手になってきているから、約束の日に電話をもらえるかしら?」

などと正直に打ち明けることができる人であったなら。

・・・孤独を少しでも減らせたのではないだろうか。

社会が、認知症の人を、人として少しでも長い時間共存しようという地盤があれば。

明日は我が身なのだから。「迷惑だな」と思うのでもなく「可哀想に」と思うのでもなく・・

普通に人として扱ってもらえる社会であったなら。

 

でも、一番身近にいる娘である私が、それをできなかったのだから・・。

 

母は、認知症の症状の進行を遅らせることのできる薬を飲みたがらなかった。

長年、慢性呼吸器疾患でステロイド系の薬を服薬し続けてきた母は、

「この歳になって、さらに薬を増やしたくない」と・・・

私と兄は、良かれと思って・・・母に薬の服用を強いた。

これも、母の意思を尊重しない行為であった・・・

 

母は、ものを投げたり、自分の思い通りにならないと噛みついたりするようになった。

その時の母の顔つきは、もう私の知っている母ではなく、

私は心底怖くなって、その場から逃げてしまった。

どうして母がそのような状態になったか、よく考えもせず。

もう、母は昔の母ではないのだ、と決めつけて。

 

悪性の社会心

1.騙す

2.できることをさせない

3.子ども扱い

4.おびやかす

5.レッテルを貼る

6.汚名を着せる

7.急がせる

8.主観的現実を認めない

9.仲間はずれ

10.もの扱い

11.無視する

12.無理強い

13.放っておく

14.非難する

15.中断する

16.からかう

17.軽蔑する

(本書p.189~190より)

 

読んでいて涙が出た。

どの項目も、私の母への対応に覚えがある。

私は、もう以前の母ではない、と思ったと同時に、母のことを一人の人間として尊重しなくなっていたのだ。

あんなにも、母の尊厳を大切にして欲しいと兄に訴えていたのに。

当の本人が・・・

 

人の積極的な営み

1.認めること

2.交渉

3.共同

4.遊び

5.ティマレーション(感覚に訴えること、感覚的相互行為)

6.祝福

7.リラクゼーション

8.バリデーション(元気づけること)

9.ホウルディング(心理的意味における抱えること)

10.ファシリテーション(失われた部分だけ援助し、できなかったことをできるようにすること)

11.創造的行為

12.贈与

 

さつきの花が満開の季節。

母と二人で外出したあの日の想い出が、

私と母の、最後の幸せな記憶。