在宅ひとり死のススメ

在宅ひとり死のススメ

上野千鶴子

文春新書

 

最近の私の読書傾向を見て、長男から

”気持ち病んでるんじゃね?”

と心配された。

 

病んではいない。

しかしながら、いつゴールを迎えてもおかしくない年齢だ。

 

私の両親の人生の終え方を観ても、

それはいつ、突然訪れようとも不思議ではない。

 

その時のための準備を進めているのだ。

我が父母のようにならないように。

長男に心残りを作らないように。

 

と言うことで本書を手に取る。

結論としては、

介護保険制度がある限り、

自宅でこの命を終えることはできそうだ。

と言うより、むしろ政府としては、

健康保険料、介護保険料の政府負担を軽減するべく、

その方向で自宅介護の仕組みを充実させようとしているらしいから、

なおさら安心だ。

 

私は、老衰により、徐々に生命力を失い自然にこの世を去る時以外、

病気で苦しんでいる姿や、何かしら不自由な中息絶えるのであれば、

その瞬間をあまり親しくもない人に見守られたくはない。

せいぜい、夫と長男くらいかな。

その後の見送り儀式も、夫と長男の2人でひっそり、しみじみと送って欲しい。

もともと友達が少ないこともあるし、

人は、一人で生まれてきて、一人で死んでいくんだ、

っていう私なりの思想があるからか。

だから、著者が、”在宅ひとり死は可能である”と結論づけてくれていて、

一定程度の安心感を得た。

 

ところが、私には一点心配な事がある。

私の実母は80歳にて認知症が判明し、現在介護付き老人ホームに入居している。

もしも認知症が遺伝傾向が強い病であったなら?

私は目の前で、母が壊れていく姿を見てきたので、

その時は、周囲に迷惑をかけたくなく、長男には、

”その時はお母さんが嫌がっても施設に入れてもらっていいから。”

と予め伝えてある。

 

本書においては、認知症になった時でさえ、

介護保険を使えば、自宅で過ごすことは可能であろう、と書かれている。

介護環境だけを考えればそうかもしれない。

しかしながら、人間には介護者にも被介護者にも、

理性があり、感情がある。

 

私の母は、最後まで認知症である自分を受け入れなかった。

ゆえに、心配する家族に対し罵詈雑言を発し、

最後には暴力も振るうようになってしまっていた。

 

のちに読んだ本によると、

その罵詈雑言も、暴力も、

自分の意思が伝わらないやるせなさからくるもので、

介護者の対応で改善できるものだと書いていた。

 

しかしながら、

1日のうちの数時間、その嵐に耐えれば嵐の雲の外に戻ることができる介護の専門家とは違い、

家族は24時間、365日嵐の中で苦しんでいる。

私は、実家からは遠く離れた土地で暮らしているため、

主たる介護者になることは不可能であったため、

主たる介護者である義姉に限界を訴えられ、ホーム入居への同意を求められた時、

反対することはできなかった。

義姉の理性や感情やが傷き、尊厳が損なわれていたから。

 

母は最後まで、義姉に対し、

”あなたがちょっと手を貸してくれれば、もう少し家にいられると思う。”

と手を貸して欲しいと懇願していたが、

その話し合いの時間が、夜中の2時3時になろうとも、

時間の観念がなく、感情抑制も効いていない母の様子を見て、

母の願いに首を振る義姉を冷たい人だと非難することはできなかった。

 

人は誰しも、少しでも長く、できれば最後まで、

自宅にて自由な生活を送りたいに違いない。

ホームに入り、掃除、洗濯、食事の支度の心配がなくなったとしても、

母はそんなことを望んでいたのではないだろう。

 

本書の中に、

認知症は自己責任ですか”

と言う提議がある。

”自己責任ではありません”

”しかしながら、認知症になったら、できる限り自宅で過ごしたいですが、

手に負えなくなった時には、身近な介護者の判断に任せます、と私は一筆書いておこうと思っています。”