その果てを知らず

その果てを知らず

眉村 卓

講談社

 

懐かしい作家さんの作品。

中高生の頃、SF小説を好んで読んでいた、その中のお一人。

 

久しぶりのSF的(この作品は、SF作品とはカテゴライズされない気が...)小説は、ストーリーの流れを追う事に苦労した。

この作品は、著者自身に重なるところが多くある高齢の主人公が、癌に侵され死を意識しながらも、彼を取り巻く人々からの影響も受け、死=未知の世界へのトランス・未知の世界での再生へと意識が変わっていくストーリーである。

細かく区切られた36章によって構成されているが、主人公の立場で書かれた章、主人公が書き進める小説としての章、俯瞰の立場で状況が説明されている章が入り乱れて話が進んでいき時間流も無秩序なので、読み進めるのに苦労した。もう止めようかと本を閉じそうになった事もあった。実際、SF小説を読破するのに、こんなに時間がかかったことはない。

 

本を閉じたくなる気持ちを引き戻させたものは何か。

それは、主人公浦上映生のパーソナリティに著者眉村卓との類似点が多くあり、その眉村卓氏が恐らくはこの小説を書き終え程なく他界されていることを頭の片隅に置きつつ読み進めると、コレは本当に眉村氏が体験された事なのではないか。

私もその果てを知りたい、と思ったからであろう。

 

重ねていうなら、私の父は不慮の事故により、突然この世を去った。私という存在を創り育ててくれた事への感謝の気持ちを一度も口にだして伝えることなく...

その父が最期の瞬間に見たものは何だったのか。想い浮かんだものは何だったのか。

私は、父への懺悔の気持ちと共に父の最期の瞬間が彼にとって苦痛のない、人生には満足した瞬間であったのだ、と思いたくて仕方ないのだ。

 

以下、心に残る一節を本文より抜粋。

 

おのれが知覚している現実のラインは、しかし一本ではなく至るところで分岐している。...この「分岐」を決定づけ流のが、あらかじめ決められた「うんめい」だとすれば、話は古典的になるだろう。だが、分岐決定の要因が、他にもたくさんあったら?もっと容易に変わるものであったらどうなる?例えば、その現実ラインに乗っている者が、違うラインを望んでいたら?このまま行ってもらいたくない、とか、こういう方向に変わらないものか、とか・・・その結果本人の欲求によって違うラインに入ることがあるとすれば、どうなるだろう。そう言えば昔から、当人が強く望んでいたために、その後が変わった、とか、悪い結果を恐すぎたあまり、帰ってそこに向かって落ちてゆくことになった、とか単純な運命論を覆す話がいくつもあるではないか。・・もしも当人が、おのれのこの先を本能的に予知して、そっちへ行きたい、あるいは絶対に行きたくないという、本人も知らない念が作用するーーーーということがあるとすれば、それで当人はこれまでの現実知覚ラインを外れ、違うラインに入って行く、ということもあるのではないか?潜在的欲求の現実化として。(p.90〜91)

 

「どこかへ編入、ですか?」普通なら、あの世とかあちらとか言うであろうところを、そんな言葉を聞かされて、映生はつい反射的に尋ねた。「まあ、生命力が多少でも残っていれば、そう言うことにならざるを得ないではありませんか」「・・・生物の生命力というのは頑強なものですよ。生命力が尽き果てる前に、違うかたちでどこかに編入され、そこでの生物になるんです。そういう転身また転身のうちに生命力が尽き果ててしまえば、終わりですけどね。・・」(p.112)

 

物質は分子、原子、クォーツとどんどん小さくなって、あるところで(クォークで?)終わりになる。エネルギーになるのであろうか。しかし、いくら分解しても分解しても、おしまいにならなかったら、どういうことになるのか。そこに入れて頂いた私は、どういうものなのであろうか。物質の無限縮小、そして、無限数世界とは、生きているもの、あるいは生きているつもりの者にとって、どういう環境なのでありましょうか。・・・私たちが存在するのが、今のこの世界だけではなく、そのぶんだけ無数にあるのか、本当はもっと少なくてたった一つか二つかわからないにしても、今人間が生きているつもりの今の世界一つよりは多いようですよ。そのどこかに行くのですよ。体を作っていたものは処分されて消え、姿も形もなくなっても、そいつはどこかが引き受けるのではないか。いy、誰もかれも受け入れてもらえるのではなく、制限されるのかもしれないけれども、その辺りはこっちにはわかりません。ただ言えるのは、当人の実体がなくなり、意識もなくなり、存在しなくなっとしても、生命はどこかの世界で続くのです。本人が知らなくてもつづくのです。私、思うんですが、そのつもりで死んだら、何か残るんですよ。本人が知覚しているかどうかは不明ですが。・・どこかの何かとして、どういう具合にいつまで続くのか、そこで死んだら、またつづきが始まるのか・・・何もわからないけれども、続くのです。一回限りの生命という考え方自体が、おかしいのではありませんかね。(p.181~182松原権兵衛の手紙より)

 

「生物とは死ぬもの、じゃないのか?」「死ぬと思えば。あるいはこれで終わりとすれば、それが死だ。」:しかし生物、自分の生命というか生存を続けようとすれば、できるんだよ。自分で死なないと信じればね。」「宇宙のーーといっても、宇宙なんて百千億兆、無限にあるわけだが、それぞれが、生命体に満ちている。いや、生命力が満ちていなければ、宇宙にならない」「そうした宇宙のどこかの生命を引き継いで、ね」「そうした生物のすべてが自分の意志一つで、ここか違う宇宙か知らないが、そっちで生命を継承して生きてゆく・・」「ありとあらゆる宇宙の、ありとあらゆる生物が、お互い、生命力を共有し合っている。それが分かっている者は生命の継承を得て、人間なり、別の生物なり、あるいは今の我々には生物とは思えない生物に変わって、生きつづけるんだ。そして、そのつもりになれば、誰もが何者でもそうなれるんだ。」「・・・死なないと決めたら、どういうかたちか見当もつかないが、生物をつづけられる、ーーと解釈していいんだな?」

(p .223~225)

 

「このことだけは忘れないでください。仮にあなたが死んでも、生きているときの感覚を保持していればいいんです。意識だけが残っているなんて、周囲の人々にはわからないでしょう。そうです、あなたは生きつづけていいのです。いよいよになってもあなたの生命力は続くのです。もちろんそれはこの世界この宇宙ではなくて、われわれの宇宙と重なった別の宇宙ですがね。でも人間ではなくても別の生命体でつづけるのは確かです。そして生物の生命力というものはずっとつづいていきます。当人が生きる意欲を失わない限りは」(p.246)

 

「新しい生物として意識をなくすとき、もっと生存の望みがあれば一心に祈る。どこかにつながる。この宇宙とは限らない。やらぬよりはやるべき。それがダークマターダークエネルギーであるかどうか、僕は知らない」・・そういうことなら、違う宇宙の生物になったっていいではないか。

 

私の父も、宇宙のどこかで、説明がつかないどこかの空間で、意識を強く生存していてくれると嬉しい。