ダリウスは今日も生きづらい

ダリウスは今日も生きづらい

アヂィーブ・コラーム著/三辺律子

集英社

 

巻末、訳者あとがきにあらすじが上手くまとまっているので抜粋。

アメリカ人の父とイラン人の母の間に生まれたダリウスは、生まれも育ちもアメリオレゴン州ポートランド。イランには行ったこともないし、ペルシア語はほとんどしゃべれない。だけど、「テロリスト」とか「ラクダ乗り」とか言ってくる同級生はいるし、ダリウスがイランへ行くと聞いたバイト先の上司には「自分の国に帰るのは初めてなのかい?」ときかれる。高校では、激しいいじめに遭っているわけではないけど、ちょっかいを出されることはしょっちゅうだし、ランチをいっしょに食べる程度の友だちはいるけど、親友と呼べる存在はいない。勉強はそれなりだけど、数学は苦手。運動は基本できない。足は遅くないし、サッカーはまあまあだけど。息子を大事にしてくれる両親と可愛い妹がいるけど、あらゆることに長けている父親とは今にとつぎくしゃくしている。」(p.401より)

 

祖父が不治の病にかかり、これが最初で最後、共に過ごす時間を持つため初めてイランに向かうダリウス。生まれ育ったアメリポートランドではペルシア人の血を持つゆえに(もちろん他に鬱病という原因も抱えてはいるが)生きづらさを感じているダリウスであったが、ペルシア人に囲まれた環境の中でも上手く馴染めない。そんな中、ダリウスを無条件で愛してくれて、その愛情を惜しみなく表現してくれる祖母との触れ合い。また、偶然にして必然のソフラーブとの出会い。そして、先祖の営みを想像することのできる遺跡やモスクなど古くからある宗教的建造物。親戚たちと過ごす時間。もしかすると、母の故郷ヤスドに流れる乾いた空気や何気ない街並みすら、アメリカ人でもペルシア人でもあることができない彼のペルシア人としてのアイデンティティを刺激するのであろう。

日本に住んでいる日本人である自分には、アイデンティティを模索し悩む人の気持ちを十分に理解できているとは思えない。がしかし、彼方むかし先祖たちが耕したであろう田畑広がる景色に包まれた時の癒され感は、自分の奥底にある何かを刺激されているのだろうと感じる。

血縁者と、DNAの中に刻み込まれている何かに癒され、少しづつ心の壁を低くなるダリウス。その癒され空間の中で、父親とだけは、1日に1回良好な親子関係を持てる時間、スタートレックを2人だけで見るというルーティーンを妹の参入により崩され、更に難しいものになる。

がしかし、典型的強いゲルマン人だと畏怖していた父親にも、重く鬱の問題を抱えていたことを知る。「辛いんだ、おまえに遺伝させてしまったことが、死ぬほど辛い」「すまなかった。お前のことを心から愛している」「おまえは大丈夫だ」「大丈夫じゃなくて、大丈夫だ」

親子が理解し合えた瞬間だ。

無常にも別れの時が来る。

「母さんがバブーにさよならを言うのを見るのは、一番つらかった。二人とも、もう二度と会えないと分かっているのだ。」「マモーとバブーが手を振っているのをずっと見ていた。玄関に浮かびあがら二人の影を。やがてジャムシードおじのSUVが角を曲がり、二人の姿は見えなくなった。」

さよならの時は、二度と会えないかもしれない(ダリウスの母親の場合は間違いなく二度と会えない)別れの瞬間の表現仕様のない辛さは、自分にも経験がある。自分の記憶にある両親の最後の姿も、私が実家の前の道の最初の角を曲がるまで、両親揃って(私が見えなくなる瞬間まで)手を振り続けている姿である。お互いの心の中にある、一期一会の気持ちが痛いほど感じられて、両親の姿が見えなくなって、駅まで重い荷物を引きずりながら止まらない涙を拭うこともできなかった。

 

さて、ポートランドに戻ったダリウスは、何かが変わっていた。いじめっ子の一味だった子からも、「なんか、ちょっと雰囲気変わったなと思って」「もしかしたら先祖さまをいっしょに連れ帰ったのかもな」なんて言われるほどに。

自分のアイデンティティに自信をもつということは、それほどに重要なことなのであろう。