ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
イギリス人の配偶者と11歳になった息子を共にイギリス南部ブライトンという町で暮らす著者が、息子の学校生活、友人関係を通して感じたイングランドの一般的な(もしくはそれより少し下級階層な)人々の生活や、階級社会が残る社会問題、そして人種・移民問題をエッセイ風に記した一冊。
書名 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーは11歳の長男のノートの片隅に書かれていたフレーズ。このフレーズを見て、著者曰く元底辺中学校に通うその長男が、学校で人種差別をうけいじめられているストーリーを想像した私を、このご長男は力強く、人間力を持って裏切ってくれた。
彼は、いじめられるどころか、いじめのど真ん中に自ら飛び込んで、いじめる人、いじめられている人に影響を与える人だった。
・アイデンティティは一つしかないということはない
分断とは、そのどれか一つを他者にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるのかもしれない。
・日本社会と英国社会の違い
It takes a villege.
英国の人々は子育てについてこんな言葉をよく使う。
「子育てには一つの村が必要=子育ては村全体で育てるものだ」 (本文より)
ヨーロッパ(ドイツ)で暮らした経験のある私が感じた事と通じる感覚。
(他の国は知らないけれど)日本にもあったはずの、一昔前の近所付き合いがいい感じに残っていると思う。
これはアメリカに住んでいた時に感じた感覚とは明らかに違う。そして、日本は明らかにアメリカ寄りに近代化されていっている。(残念ながら)
ドイツでも、日本人が忘れてしまいがちな「人情」や「互助精神」を感じる場面が多々あった。これは、根底にキリスト教の慈愛の精神があるからではないかと私は勝手に思っている。
街には必ず教会があり、その前に暮らしに困った人が座っていると、ごく自然に幾ばくかのコインを寄付する人々。その光景は、ごく当たり前の街の景色に溶け込んでいる。
これはボランティア活動についても同様で、余裕ある人が余裕ない人に力を配分する自然な行為であり、参加したからと褒められることでも、参加しないからと非難されることでもないのだ。学校のPTA活動についてもそう。PTAという名称はないのだが、これはアメリカもそうだったけれど、公立の小学校では父兄のボランティア活動が盛んである。
働いている人、働いていない人もどんな事情の人も自分のできる範囲で自主的にボランティア活動に参加する。そこに押し付け合いの感覚はない。
日本人は忙しすぎるのだろうか。
気持ちに余裕がない人が多い気がする。
・長男人種問題、アイデンティに向き合う
西洋人と東洋人との間に生まれた人を数人知っているが、共通して聞かれる質問がある。
「私はなに人に思いますか?」
彼、彼女たちは必ず自分の人種的アイデンティティに迷うようだ。
東洋人に尋ねると、『西洋人に見える」と言われ、
西洋人には、「東洋人の血が濃いね。」と言われるらしい。
そこで、はてな???
私、どこにも属してない。
って悲しくなるらしい。
”マルチカルチュアル”
現代社会には人種だけではなく様々な属性が存在する。
生に関する属性について、向き合い悩んで何かしらの答えを見つけられた人は、
このマルチカルチュアルな現代社会の中での問題にも敏感で、強靭で、
でも、感受性が豊かになりすぎて”生きづらさ”もあるのかなと、
”ちょっとブルー”なご長男の気持ちに寄り添ってみた。