ガラスの50代

ガラスの50代

酒井順子

講談社

 

氏がmi-molletに寄稿されたエッセイを纏めた1冊。

著者の作品は、2003年”負け犬の遠吠え”以来手に取ってこなかったが、書名を見て読んでみたくなる。

 

第1章、冒頭より”夏目漱石は四十九歳で亡くなりました”と始まり、何故かとっても申し訳ないけど気分になる。人生50年だった頃を考えれば、今の私は既にいない存在だったのかもしれない。だとすれば、なんと慌ただしく、何事も成し遂げられず終わってしまった人生だろう。かといって、今から自分の命尽きる瞬間までに、何事かを成し遂げられる、もしくは成し遂げる予定がある訳でもない。

人は日常的に寿命を意識し、自分に残された時間を気にかけながら、1日を、1時間を、1分1秒を過ごしているわけではないであろうから、気がついた時には人生に終わりを迎えているのだろう。

第2章に入り、同じくバブル世代である著者に共感する箇所が多々出てくる。

”我々より上の世代は、結婚して子供を産めば、粛々とおばさんになっていったもの。対してバブル世代は、ちやほやされる快感を知っているため、「ずっとこのままでいたい」と、おばさんとなることに必死に抵抗するようになったのです。イケイケ精神が身についている我々は、二十代後半になろうと三十代になろうと、自分がずっと「若者」の領域にいるものと思い込んでいました。”

そうなのです。結婚して子供を産み育てている間も、実母からはよく『年相応な服装』を求められ、『いい歳して、もう少し落ち着いた話し方をしなさい。』と指導されたものだ。そしてその都度、『お母さんの時代とは違うのよ。』と反抗してきた。まさに我々はいつまでも若々しく、新しい時代を切り拓いていく世代なのだと息巻いていたのだ。しかしながら、身体は精神に伴ってこない。年相応に更年期を迎え、気分は落ち込み、身体の衰え、体力の低下を実感させられる。そして、「いつまでも年相応に落ち着いた振る舞いができない」自分の精神的未発達さを招いたこれまでの日々の積み重ねを逆にひどく後悔する。

子供の独り立ち、両親の介護、両親との別れという困難な現実に対峙した時、それを乗り越えられる精神が育っていない自分に気がつくのだ。

第4章「懐かしむというレジャー」

これにもいたく共感!!時代についていくべく、音楽をサブスクで聞くようになった昨今。新しい流れを知ることができる、と最近のヒットチャートを聞いてみたのは最初の頃だけ。最近はもっぱら、若き良き時代に聞いた曲を検索して、自分のプレイリストを作ってはリピートしている。進化なし・・・。音楽って、聴いているとその時の自分が蘇って、凄くいいのだ。凄くいいって何が???(抽象的な表現だけど)すごくいいの。感傷的にもなれるし、アゲアゲ気分にもなれるし・・・。何せ、すごくいい!!!

罤7章「母を嫌いになりたくないのに」

そうなんです。私も母を嫌いになりたくなかったです。

罤8章「朽ちゆく肉体、追いつかぬ気分」

”同世代が集まれば、出てきがちなのは、身体の話。「数値が」「痛みが」などと話の種は尽きないのですが、そんな話をしていて思うのは、「意外と楽しい」ということなのでした。身体に訪れる老化や変化に戸惑っているのは、自分だけではないと確認することによって、気持ちが楽になるのだと思う。”

”この年頃になると、さまざまな症状を必ず乗り越えられるとは限らなくなってきます。若い頃も不調はありましたが、それは時が経てば、もしくは治療をすれば治るものでした。しかし年をとると次第に治りが遅くなり、そうこうしているうちに「どうやら治らないのかも」ということも。身体の不調は、「乗りこえるもの」から「付き合うもの」になってきたのです。”

はいはい。私もいつからか月に一度の病院通いが始まり、食後にお薬を飲む生活をしております。主治医にはとにかく「甘いものは食べるな」「体重を減らせ」「お酒は飲むな」とキツく指導され、「食べることが大好きだったのに、残りの人生楽しみがなくなりました。」と嘆く私に、「他の楽しみを見つけましょう。」と厳しい笑顔で念を押されております。先日の胃カメラでは、「胃の入り口がゆるんでいる」と・・・・。「緩むって!?」・・・胃の入り口まで緩むのか・・・。実感のないところまで・・・緩んで・・・老化(泣)

罤13章「エモい」と「無常」

”五十代ともなると、軽々に流行り言葉を使用するのも、またかつての流行り言葉を延々と使用し続けるのも、危険なプレイ。・・きちんとした家庭で育った友人知人を見ていると、やはり決して流行り言葉は使用しないのでした。”

同感です。この年になると、さらに、日本人に生まれたからには、正しく美しい日本語を使いたいと思います。最近、俳句や「季語」に興味を持ち始めたのも年齢のせいでしょうか。

罤17章「コロナと五十代」第18章「好きに老けさせて」

付録大アンケートにも上がっているが、

「腐れ縁の友人やグループと、自分を偽って付き合うのはやめた。初めて自分が1人で考え生きていく覚悟ができ始めた気がしている。」

「広く浅い付き合い。SNSは面倒臭くなってきた。」

「人と群れる」「愛想笑い。くだらない集まり。」←50代になって嫌いになったもの。

コロナ禍にあって、私も一年半以上家族と職場の人以外とは会っていないし、会話もしていない。たまにくるLINEでの様子伺をやり取りするくらいで、電話やリモートは面倒くさくて、というかそこまでして繋がっていたい友人がいないのだという事実を再確認した。私は筆者と同じく、家に1人でいて苦痛を感じないタイプ。コロナ禍で、腐れ縁のママ友からの誘いがなくなったことは快適この上なく、このまま全ての付き合いを断捨離してしまいたい位だ。・・が、巻末の第アンケートを見て、私のみならず、多くの人がコロナ禍での生活において、1人でいることに孤独を感じず、1人時間をむしろ楽しんでいるのではないかと感じた。つまり、お互いが気を遣いあって時間を共有していたのかもしれない。人間の感情とは・・・。人間のコミュニケーション力とは・・・。

 

 

ひきこもれ

ひきこもれ:ひとりの時間をもつということ

吉本隆明

SBクリエイティブ(株)

2020.9

 

私は人との付き合いが苦手だ。

思えば、幼い頃から外出が嫌いで、両親に否応なしに連れて行かれる外出も早く自分の家に帰りたくて仕方なく、帰宅するとすぐ自分の部屋に閉じこもり、自分のお気に入りのおもちゃ、具体的にはリカちゃん人形のお家セット、リカちゃん人形何体かを使ってのごっこ遊びをして気持ちを昂め直していた記憶がある。

小学生時代には、一刻も早く家に帰りたいがために、いわゆる女の子同士がつるんで帰宅するグループに交わることなく、一人で駆け足気味に帰っていた。

その習慣はいつまでも抜けず、女の子コミュニティーが大切になる思春期になっても一人ぼっちの登下校を続けた私は、今から思えば(本人は気づいていなかったが)相当浮いた存在だったのかも知れない。

そう言えば、本人が気づかない=周囲の眼が気にならない、ということも大きな問題だったのかも知れない。

成長するに従い、そこそこ人と話す努力をするようにはなったが、子育て時期にもママ友とのコミュニケーションに悩み、どうしても行かなければならない父母会の後などは、いつも2〜3日寝込んだりしたものだ。

子育てにおいては、親の出番がなくなった今、

近所つきあいにおいては、都会のマンションぐらし、隣は誰が住む人ぞ状態に感謝しつつ、

コロナ禍にあり、私のためにあるような緊急事態宣言でひきこもり状態を誰にも”おかしな人だ”と思われることなく、むしろ社会に貢献している自負心さえ与えてくれる今、

(息子の就職という最悪の悩みは抱えているものの)

何十年ぶりか、心の中の重い荷物から解放された気分である。

 

そして、本書”吉本隆明氏のひきこもれ”にて、

一人で過ごす時間は「価値」を生み出す

というお墨付きをいただき、今後気が済むまでひきこもりせいかつを続けていこうと考えております。

 

以下、本文より。

 

・「孤独」ということを、どこまで自分の中に呑み込んで、つきつめていけるか。そしてその上で、どこまで風通しよく生きていけるか。それを目指していこう、と。

(p49)

 

・いまで言う「ひこ子守」の病的なものに近いと思って、反省したり直そうとしていた時期は、ひここもるということを、「いい・悪い」の軸で考えている面がありました。でも今は、善悪には全く関係がないとおもっています。

誰でも「意味」に傾くか、「価値」に傾くかどちらかであって、それは良し悪しではない。性格とか、得意・不得意とか、そういうこととは関係があると思いますが。

僕はいまでも、社会性がないとか、おっくうがってやらないことが多すぎるとか、言われることがよくあります。でもそれは自分の欠陥かもしれないけれど、悪とは違うぞ、と考えます。

もっと別の言い方をすると、人間の性格は胎内で人間として身体の器官がそろって働くようになった胎児の頃から一歳未満の乳児の頃までの間に、主に母親との関係で大部分が決まってしまうと考えるようになりました。

若者になってからひここもり気質を直そうというのは、もう遅いのです。わざとらしい偽の行為になってしまうのが多いです。

(p50−51)

 

母親の影響を強く受けている息子への助言ともなる章

 

・なるべく早く、引っ込み思案なら引っ込み思案の自分にあった仕事を見つけた方がいいんだよ・・なぜなら、どんな仕事でも、経験の蓄積がものを言うからです。持続ということは大事です。持続的に何かをして、その中で経験を積んでいくことが必要ないような職業は存在しません。ある日突然、何ものかになれるということはないということは、知っておいた方がいい。・・・・才能がどうこう言っても、十年続けないと一人前にはなれません。

逆にいうと、十年続ければどんな物書きでも何とかなります。

・・・これはどんな仕事でも同じです。どんなに頭のいい人でも、毎日継続して「手を動かす」「てで考える」ということをしない限り、五年もすれば駄目になる。手を動かし、手で考えるとは、物書きの場合ならとにかく書き続けることであり、書けなくても毎日原稿用紙に向かうことです。文学者であろうと職人さんであろうとバイオリン弾きであろうと同じです。

(p119−120)

<息子への気持ち>

我が家系にその筋の身内は誰もいない”音楽”を自分にあった仕事なのだと信じて疑わない息子。我々のDNAに音楽的才能はないんだから、と心ない言葉で違った道へと、もう少し食いぶちに預かられる道へと誘おうとする愚母に対し、”僕は、才能の存在を信じない。努力することが大事。”と言い返した息子。おかげでいまだに就職先は見つからず・・・。

やりたい仕事に確信を持って努力している息子を褒めるべきなのか。

もう10年、、、せめて傍観してあげるべきなのか。

 

 

共感した一節

 

・書いたものを他人が読んでくれればいいわけですが、読んでくれる人がいなくても、うまく自分の考えていることや感じていることが文章の中で言えていたら、それが自分の慰めになるということが自分でわかれば安心する。つまり、書くことはぼくにとって自己慰安になっていたのです。

(p124)

 

 

 

 

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー

ブレイディみかこ

 

イギリス人の配偶者と11歳になった息子を共にイギリス南部ブライトンという町で暮らす著者が、息子の学校生活、友人関係を通して感じたイングランドの一般的な(もしくはそれより少し下級階層な)人々の生活や、階級社会が残る社会問題、そして人種・移民問題をエッセイ風に記した一冊。

書名 ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーは11歳の長男のノートの片隅に書かれていたフレーズ。このフレーズを見て、著者曰く元底辺中学校に通うその長男が、学校で人種差別をうけいじめられているストーリーを想像した私を、このご長男は力強く、人間力を持って裏切ってくれた。

彼は、いじめられるどころか、いじめのど真ん中に自ら飛び込んで、いじめる人、いじめられている人に影響を与える人だった。

 

アイデンティティは一つしかないということはない

 分断とは、そのどれか一つを他者にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるのかもしれない。

 

・日本社会と英国社会の違い

 It takes a villege.

  英国の人々は子育てについてこんな言葉をよく使う。

「子育てには一つの村が必要=子育ては村全体で育てるものだ」 (本文より)

 ヨーロッパ(ドイツ)で暮らした経験のある私が感じた事と通じる感覚。

 (他の国は知らないけれど)日本にもあったはずの、一昔前の近所付き合いがいい感じに残っていると思う。

これはアメリカに住んでいた時に感じた感覚とは明らかに違う。そして、日本は明らかにアメリカ寄りに近代化されていっている。(残念ながら)

ドイツでも、日本人が忘れてしまいがちな「人情」や「互助精神」を感じる場面が多々あった。これは、根底にキリスト教の慈愛の精神があるからではないかと私は勝手に思っている。

街には必ず教会があり、その前に暮らしに困った人が座っていると、ごく自然に幾ばくかのコインを寄付する人々。その光景は、ごく当たり前の街の景色に溶け込んでいる。

これはボランティア活動についても同様で、余裕ある人が余裕ない人に力を配分する自然な行為であり、参加したからと褒められることでも、参加しないからと非難されることでもないのだ。学校のPTA活動についてもそう。PTAという名称はないのだが、これはアメリカもそうだったけれど、公立の小学校では父兄のボランティア活動が盛んである。

働いている人、働いていない人もどんな事情の人も自分のできる範囲で自主的にボランティア活動に参加する。そこに押し付け合いの感覚はない。

日本人は忙しすぎるのだろうか。

気持ちに余裕がない人が多い気がする。

 

・長男人種問題、アイデンティに向き合う

西洋人と東洋人との間に生まれた人を数人知っているが、共通して聞かれる質問がある。

「私はなに人に思いますか?」

彼、彼女たちは必ず自分の人種的アイデンティティに迷うようだ。

東洋人に尋ねると、『西洋人に見える」と言われ、

西洋人には、「東洋人の血が濃いね。」と言われるらしい。

そこで、はてな???

私、どこにも属してない。

って悲しくなるらしい。

”マルチカルチュアル”

現代社会には人種だけではなく様々な属性が存在する。

生に関する属性について、向き合い悩んで何かしらの答えを見つけられた人は、

このマルチカルチュアルな現代社会の中での問題にも敏感で、強靭で、

でも、感受性が豊かになりすぎて”生きづらさ”もあるのかなと、

”ちょっとブルー”なご長男の気持ちに寄り添ってみた。

 

 

今日の私は、だれ?:認知症とともに生きる

今日のわたしはだれ?:認知症とともに生きる

ウェンディ・ミッチェル

 

シングルマザーとして、キャリアウーマンとして颯爽と生きてきた著者ウェンディーが、徐々に病魔に蝕まれ、58歳で若年性認知症と診断される。

その診断されるまでの心の揺れ、

診断確定された時の娘2人への想い、

診断後、周りの人に助けられながら仕事を続けていく様子、

病魔というよりは、社会(具体的には会社の上司)の理解が得られず、やむなく職場を去る様、

仕事を失ってからも、積極的に社会との繋がりを求め懸命に生きる様。

 

通じて、認知症を特別な病とは受け止めず、ある難病に侵され立ち向かっていく、そんな決意と実行力に心が揺さぶられる。

 

見覚えのない空白。

盗まれる記憶。

 

自分自身に襲いかかる症状に怯え不安を感じながらも、2人の娘を介護者にするつもりはない、とアイパッドや様々な工夫を自ら考え出し出来る限り一人暮らしを続けたいと考えるウェンディ。

娘たちを想い、永続的委任状について娘たちと話し合い、理解を求め、納得を得るウェンディ。

そこには、”蘇生措置はしてほしくない””住む場所を自分で選ぶ能力を失うか、自宅は安全ではなくなるかしたら、しかるべきケアハウスの選定を、弁護士に一任します。”という娘たちにとっては悲しい現実に向き合わなければならない文言が書かれている。

がウェンディの想いは”あなたたちには、介護者になって欲しくないの。あくまでむすめだし、これからもそうであってほしい。”

 

涙が溢れる。

私の母は78歳だったからなの?

私に母のために犠牲を払って欲しいと求めていた。

自分が病気であることは、最後まで認めなかった。

 

(本文より抜粋)

・・・病気の脳がいたずらしたのだ。・・・・あの瞬間、私は母や父がまだ生きていると考えていたのか。・・母と父が亡くなった事実を、何度も言い聞かされる必要はない。この幻覚が他の人に迷惑をかけるのか?記憶能力に問題のない人たちは往々にして失念する。認知症を抱えたわたしたちは過去の出来事に想いを馳せるものだし、そんな時は現実に引き戻すのではなくわたしたちの体験に”合わせる”ほうがいい、ということを。倫理に反する対応ではない。ただ相手の体験を尊重すればいいだけだ。・・・愛する人の死を嘆く者は誰しも、たとえ五分間でもいいからその人と一緒にまた過ごせるならありったけの財産を差し出すのではないだろうか?

 

でも、ごめんね。

私は、あなたに襲いかかっている病が恐ろしくて、

あなたを尊重することができていなかったと思う。

 

あの時、私はどうすべきだったのか。

未だにわからず、自分を責め続けている。

 

が、もし。

貴方がウェンディのように私を娘として大切に思っていてくれたなら、

私の苦しかった気持ちもわかってくれていたのかな。

 

 

 

 

 

ツナグ:想い人の心得

ツナグ:想い人の心得

辻村深月

 

前作のツナグは心に残る一冊であったので、楽しみにして手にとった続編。

使者、歩美は使者隣7年が過ぎ、大学を卒業し社会人2年目を迎えている。

今作冒頭の”プロポーズの心得”では、杏奈という新しく使者として登場してくる。この話が終わる直前まで、今回のツナグは前作とは全く違う登場人物による全く別の話なのかと思ったが、この話は前作がなければ成り立たないエピソードであり、最後にしっかり歩美が登場し、続きを期待させる構成となっていた。

 

プロポーズの心得

歴史研究の心得

母の心得

一人娘の心得

想い人の心得

 

母の心得より心に残った一節。

”母親って、自分の子どものことはなんでも自分に責任があるんじゃないかって、そんな風に思うものなのかな。”

水難事故で幼い娘を亡くした母親、

がんに侵され結婚後間もなく命絶えた娘の母親。

その2人から、理由は別ではあるが、それぞれ娘の死に母そしての責任を問うて自分を責めている。

そんな2人を見て歩美が発した言葉。

今の私の心情そのもの。

就活がうまくいかない長男を見て、私の育て方が悪かったのだと自らを責める日々。

 

今回のキーパーソンは、歩美の仕事の取引先の一人娘奈緒

一人娘の心得では主役であり、

その他の話でも、歩美の仕事絡みの場面でちょこちょこ顔出ししている。

幸せになってほしいな。

 

全編通じて、ストーリーが美しい。

場面場面の背景描写が繊細で、その場面が頭にすっと浮かんでくる。

辻村さんらしい作品だと思う。

 

が、やはり初作ツナグほどのインパクトはなかった。

が、もう一度初作ツナグを読みたくなった。

 

初作ツナグは名作だな、と再認識した。

 

 

 

公園にて

コロナ感染が怖くて外出できない。

長男の就活が心配で、気分が落ち込み外出できない。

 

そして、

気付けば1週間、家の中で、

ゴロゴロ、鬱々過ぎていた。

 

外は、あんなにも綺麗な青空なのに。

私は、陽の差さないマンションの1室で、

今日もまた1日、過ぎていくのか。

 

思い立つ。

青空の下に。

行こう。

どうか笑顔が戻ってきますように。

 

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長男の就活

個性的過ぎる長男の就活が始まった。

そもそも、創作活動好きなピーターパン症候群気味な彼を、就職する気にさせるのが大変だった。

ようやく就活を始めた彼だったが、

第一希望、第二希望と不合格連絡が続き、ついに就活に向かっていたベクトルが再び遥か彼方、斜め上に向かおうとしている。

恐れていた事態だ。

 

親として、どう対応すれば良いのやら……

私の気持ちまで不安定になる。